吉田松陰

 もし、吉田松陰がいなければ、明治維新は起こらなかったかもしれません。吉田松陰が育て弟子だちが、明治維新の原動力となったことは言うまでもありません。わずか29歳で安政の大獄で処刑されますが、吉田松陰の松下村塾では、塾生との対話を重んじた教育が行われていました。私は松下村塾に行ったことがありますが、本当に小さな小さな建物です。吉田松陰の志高く生きた人生からは、多くのことを学ぶことができます。

吉田松陰(1830~1859)

吉田松陰の人生

「留魂録」
その冒頭に記された辞世は、「身はたとひ  武蔵の野辺に朽ちぬとも  留め置かまし ( 大和魂 )」

吉田松陰の経歴・業 績

①30年に満たない短い生涯の中で、明治維新の指導者となる明治の3傑といわれた木戸孝允、( 高杉晋作・奇兵隊創設者 )をはじめ久坂玄瑞、
 ( 伊藤博文・初代総理大臣 )、( 山県有朋 第3・第9代総理大臣 )、吉田稔麿、前原一誠など人材を多く育てあげた。
②( 松下村塾 )で、青年たちを教えた期間はわずか1年半だが、何故そんな短期間で歴史的な人材教育が成し遂げられたのでしょうか。
③吉田松陰が5歳の時、叔父の吉田大介が亡くなりました。藩の軍学師範をつとめていた叔父には子供がいなかったので、松陰を吉田家の養子となる。松陰すさまじいスパルタ教育を受けました。そうした教育の結果、松陰は11歳にして藩主を前に軍学講義をできるまでになりました。
④松陰が江戸遊学中に( ペリー )が来航。米艦隊を目の当たりにした松陰は、衝撃を受けます。
⑤焦燥にかられた松陰は、ペリーの艦隊に行き、「アメリカに連れて行ってくれ」と頼みました。
 しかし、ペリーは乗船を断らざるを得ませんでした。松陰らのやったことは密航の企てです。松陰は自首し、( 長州藩 )の「野山獄」に幽閉の身となりました。

⑥当時の牢獄ですから、冬は寒く、夏は暑く、それはひどい環境でしたが、松陰は勉強に勤しみました。出獄するまでの1年2ヶ月で600冊の書物を読み、「野山獄文稿」などの執筆もしました。
⑦また、囚人たちを集めて「孟子」などを講義し、最年少でありながら囚人たちに師と仰がれる存在となったのです。
⑧その後で、謹慎の身となり、藩主は松陰が学問を講ずる許可をしました。歴史に残る、( 松下村塾 )が始まったのです。
⑨「松下村塾」は、身分に関わらず門下を開き、身分に関わらず足軽や農民、商人の子らと対等な立場で学習ができたのです。また松陰は年少の弟子に対してもその人格を重んじ、礼を尽くして接したとのことです。
⑩松陰のもう1つの特長は、学問の知識だけではなく、生き方を教えたということです。日本の未来の為に何を成すべきかを日々熱く訴えかけたと言われています。弟子たちにとって松陰は、人生の師でもあり同じ目的を持つ同志でもあった訳です。
⑪1858年、大老・( 井伊直弼 )は、朝廷の意向を無視して( 日米修好通商条約 )に調印。
 これに反対する尊皇攘夷派を弾圧しました。松陰も調印に強く憤る1人であったため、( 安政の大獄 )により、短い生涯を閉じたのです。

⑫処刑を前にして、獄舎で書かれた遺書( 留魂録 )には、弟子たちに後を託す言葉が並んでいます。「同志諸君、私の敗北を厳しく追究してくれ。
 一度の敗北で挫けるのは決して勇士のすることではない。頼むぞ、心の底から頼む。」との主旨が書かれていました。

⑬これは、私はあなた方の師匠ですが、私が失敗したことを参考にして、あなた方は乗り越えて下さい。さらに素晴らしい人になって下さい。との意味合いが込められているのです。

吉田松陰の著書
「 留魂録 」

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