防衛的・拒否的な中学生とどう対話するか

 最近、子供の心を理解するのが難しいという教師の言葉を耳にします。教師が生徒に対して十分に心を開いたつもりで接しても、生徒の側が心を閉ざし、防衛的・拒否的な態度をとることがよくあります。そのような生徒の態度に教師は混乱してしまい、客観性と相手の気持ちをくみとる、この両面のほどよい感覚のバランスを崩してしまいます。
 そのために、生徒と教師の心理的関係は悪化し、生徒の問題行動を表面化し、教師も指導のむなしさを感じてしまいます。そのような悪循環を断ち切るために防衛的・拒否的生徒に対する指導のあり方を検討してみました。
 防衛的・拒否的な生徒には、説得、説教ではほとんど気持ちは伝わらないものです。そのためには、アプローチの工夫と教師の柔軟性が求められます。
 自分の持てる力を発揮したい、それを人に認められたい、人を愛し、愛されたいといった人の本質は変わっていないでしょうが、様相は確かに変化しているでしょう。自己のうちに潜んでいるその願いを適切に表現できない生徒が増えているように思います。こういう生徒に対しては、多角的なきめ細かいアプローチによって生きている実感、喜び、自分の存在が受け入れられているという基本的な、揺るぎない感覚を体験させることが必要です。
 防衛的・拒否的態度の生徒も何かを抱えているからこそ、そのような態度で硬く心の扉を閉ざしているのです。そんな態度もすべて受け止めることから出発してはどうでしょうか。けっしてあせったり、操作したりせず、生徒を一人の人間として尊重するところから出発することが大切だと考えます。

1 問題行動をくりかえすA君との関わり
 A君は、小学生のときから、万引き、飲酒、喫煙、暴力行為を繰り返してきました。中学入学後も髪を赤く染め、問題行動を起こしました。教師の話を素直に聞くこともできません。常に教師に対して不信感をもち、防衛的・拒否的姿勢を前面に出していました。A君の表現手段は、言語ばかりではなく、態度、問題行動も含んでいることを前提に理解しました。
 「先生が相談に乗るよ」といくらA君に言ってもA君が「この先生に相談したい」と思わなければ関係は成立しません。担任としての態度、教科指導、休み時間での生徒との接し方まで、生徒は教師を観察しています。日常の教師のもつ生徒観や考え方を、生徒は敏感に感じ取っています。防衛的・拒否的なA君は、特に研ぎ澄まされた感覚で「この先生は俺のことを本気で考えてくれているか、否か」を判別しているようでした。もうこの時点でA君との対話が成立するかどうかが決定しているのです。
 A君は中学入学後、すぐ上級生に対して暴力事件を起こしました。その後の対応で、何も話さないA君に対して「今いろんなことを考えているんだね。先生待っているから話したくなったら話してごらん」かなりの沈黙の後、A君はポツリポツリと話をし始めました。A君の言い分をじっくり腰をすえて、真剣に一言ひとこと大切に聞きました。何を話してもいいという雰囲気の中で、A君自身の譲れない部分と譲れる部分が見えてきました。「A君の考え方は先生も理解できるよ」「先生、先生だね」「どうして?」「おれのこの考えが理解できるなんて、初めて言われた」。
 A君は家では、父親からよく暴力を受け、会話はほとんど成立していないこと、兄弟でよく比較されることなどいろいろな話をしてくれました。「先生は今までの先生とは違うね」。
 その後も何度か問題行動を起こしましたが、急速に落ち着いていきました。A君との心理的に適切な距離を常に意識し、A君が相談があればすぐに来ることができ、教師がA君のサインを感じればすぐに対応できる距離感を保ちました。初回の面接が極めて大きな意味を持つことになると考えています。いくら問題行動を頻繁に起こすからと言っても一から十まですべてを否定したり、全人格を否定するような言動は、何も効果をあげることができません。頑なな防衛的・拒否的な態度を否定的にとらえても解決につながりませんそうした生徒の態度は表面的なものであり、その奥に潜む問題について私達の理解が深まるにつれて、生徒の態度の変容も見られるでしょう。面接場面ではA君のよい点をわかりやすい言葉で伝えました。また、自己決定できる場面を用意してA君の自己決定を待ちました。そんな対応がA君の心を開かせたと思います。

2 六年間不登校を続けるB君との関わり
 B君は小学校四年生から中学三年生まで不登校をつづけました。友達もなく、家に閉じこもっていました。不登校初期には家庭内暴力もあり、それ以来、自分の部屋に鍵をかけて親さえも入れない状態で昼夜逆転の生活を続けていました。B君と親との会話もありません。 家庭訪問をしてもB君とは会うことは全くできませんでした。中学一年生までは週一回の家庭訪問を続ける中で、見かけたのは、後半三回だけでした。B君は言葉すら発することなく、不安そうにこちらを観察していました。二年生になったB君と会話はなくてもテレビゲームなどを通してコミュニケーションを図っていきました。テレビゲームでは「ピョヨ-ン」とおもしろい音を出すゲームをB君は好きでした。家庭訪問をした際のB君への挨拶を「ピョヨーン」に変えてみました。そのときはじめてB君の笑顔を見ることができました。B君は三年生の後半から週一回午後七時に夜間登校できるようになりました。教育相談室で、担任、相談所、時には連携をお願いしていた教育研究所の相談員も参加して会話も交えるようになりました。
 B君は、深夜放送のラジオが唯一の友達でした。(ちょっと古い事例です。今ならyou tubeですよね。)そのためいろいろなことを知っています。後半には自分からジョークを飛ばし、私達を笑わせてくれました。その後、通信制の高校に入学し、スクーリングにも参加して一歩一歩自分の足で歩出しています。時期が熟するのを待つ姿勢で臨んでいると、往々にして新しい局面が開けてくるものです。
 言葉を媒体とするコミュニケーションが成立しなくても生徒が暖かいと感じられる雰囲気を教師が伝えていくことが必要です。それは暖かい視線でも表情でもよいのです。どこかほっとして気持ちが安らぎ、しかもユーモアの感覚があればよいでしょう。教師がその場を楽しめなくては、生徒の心を解放することは難しいでしょう。言語的・非言語的メッセージを教師が受け取り、理解し発見する過程を通して、理解される喜びや安心によって関係はさらに深まります。B君は、それまで気づかなかった自分の潜在的可能性を発見し、それを喜びに感じ、さらに自己を開示したと思われます。

3 生徒の自尊心を尊重する
 人間は、自分の立場から相手の特徴のみを捉えて、その人の全体像であるかのように認識しやすいものです。しかし、子どもはしばしば時と相手に応じて、自分をそれぞれに著しく異なった形で表現します。
 生徒を一人の人間として正面から向き合い、その子のもつ自尊心の尊重を心がけながら、教師が生徒の潜在能力、可能性を発見することが大切です。
 問題解決を第一に考えすぎず、悩むことや自分自身を見つめる時間を保証し、生徒がサインを出すのを待つのではなく、積極的にサインを探す努力が必要です。非言語的コミュニケーションのチャンネルを多く持ち、そのサインを受け止めてくれる教師には、生徒は安心感を抱き、自己開示してくれるでしょう。
 教師には、感性を曇らせない努力と、自分を突き放して省察する、すなわち、知性と感性をいつも自己研鑽することが求められていると思います。

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