ヨハン・ハインリヒ・ペスタロッチ

 教員採用試験では最重要人物です。教育学と言えば、ペスタロッチが一番先に登場し、一番人気がある教育者です。子どもを大切にする教育を創った人物で、私も大好きです。
 まずは、ペスタロッチの波乱に満ちた人生を見れば、皆さんも大好きになるでしょう。

ヨハン・ハインリヒ・ペスタロッチ(1746~1827)

ペスタロッチの人生

ペスタロッチ(1746~1827)
① ナポレオン(1769~1821)と同じ時期に生きています。
② フランス革命の時代
③ 実は、ペスタロッチ(56歳)はナポレオン(33歳)にあったことがあるが、相手にされなかった。
④ 弟子にこう言った。「私はナポレオンに会うために会議に行ったのではない。ナポレオンの方こそ私に会えなかったのだ。」
⑤ 権力者が何だ。民衆を支配し、利用せんとする権力者などに、わざわざ頭を下げる必要はない。
⑥ それより、一人でも多く、未来に可能性を秘めた青年たちと会い、希望と確信を贈る方がはるかに素晴らしい。私は“人間をつくる”教育者だ。
⑦ 68歳のときプロシア王ともあった。
⑧ しかし、2人とも、ペスタロッチを理解できなかったし、理解しよとしなかった。

ペスタロッチの経歴・業績

①18世紀後半の( スイス )の教育者。
 スイスのチューリッヒ生まれ。
 父は、5歳で病死。学校より農村の牧師の祖父のもとで生活が影響を与える。
 22歳から農業経営、学校経営を何度も行うが失敗する。理由は親の我がままな要求や資金不足。
 革命期で、孤児、貧民が増加した時代であり、教育で社会変革、貧民救済をしようとした。
 
②( ルソー )の影響を強く受ける。社会の荒廃から、児童を救済するために、愛・自由・生活を中心に教育を実践。
 
③「 隠者の夕暮れ 」・・・22歳で農業経営、学校経営をしたときの教育実践記録。

 「知的能力・・(  )」「道徳力・・(  )」  「技術力・・(  )」の調和的発達ことが教育の目的とした。隠隠とは以後18年の著作活動生活をいう。
 
④ 酒みの職人リーンハルトと良き妻ゲルトルートの教育小説で、ヨーロッパで絶賛される。

 民衆に貧困から抜け出すための教育、生活について物語の形式で民衆に説いた。しかし、貧民事業に失敗して原稿も買えなく、帳簿の余白に書いていた。
 
⑤( シュタンツだより  )

 シュタンツに孤児院を開き、( 民衆教育 )の必要性を説く。いい子や金持ちの子どもではなく、貧しい子、孤児を教育の対象とした。
 施設を一つの大家族と考えて、家庭教育、道徳教育を重んじた。シュタンツは、フランス軍との戦争で、孤児が多く文部大臣の要請で孤児院を開く。しかし、半年で閉鎖。
 「どんなに貧しい子どもでも、神より与えられた人間性の力がる」「シュタンツだより」
 
⑥「 ゲルトルート児童教育法 」
( 3H’s )の思想( 手・頭・心 )の重視。教員養成施設のあり、世界中から参観者がくる。しかし、発展とともに中流階級の子どもがあつまり、貧しい子、孤児の民衆教育ができなくなった。
 
⑦ 経営重視の現実派と理想主義の教師に対立が起こる。白鳥は死ぬ前に鳴く、歌を唄うという伝説がある。ペスタロッチも、自分に命が短いと察知して、この題名を付けた。
 
⑧ 教育は、子どもの初めから備わっている能力を開発するものであると説き、( 開発的 )教授法を唱える。
 
⑨( 直観 )教授( メトーデ )とは、知識を言葉で教えるのではなく感覚器官を通じて教える方法。例えば、実物や図鑑を見せて授業を展開すること。「感覚的印象こそ知識の唯一の基礎である」といい、( 直観から理論へ )説いた。
 
⑩労作教育で、( 生活が陶冶する )という。
 「学習」が「仕事」に置き換えられていた。子どもの学習を生活に結び付ける。

 聖書が読めるより、自活する能力が必要と説く。
 
名言「生活が( 陶冶 )する」

名言「( 玉座 )の上にあっても木の葉の屋根の陰に住んでいても、すべて( 人間 )である 」隠者の夕暮れより
 
⑪ 直観教授法は、( デューイ )の経験主義や

( キルパトリック )のプログラム・メソッドに発展していく。

ペスタロッチの著書

「  隠者の夕暮  」1780年
「  リーンハルトとゲルトルート  」1780年
「  シュタンツ便り  」1798年
「  ゲルトルート児童教育法  」1800年
「  白鳥の歌  」1825年

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