自子中心主義の親
題名をよく見てほしい。自己中心ではなく自子中心である。
1 自子中心の親の末路
最近、自己中心的な親のことを自子中心的な親という教育学者がいる。大阪大学の小野田正利教授である。小野田教授は、親が学校に意見をいう内容を〈要望レベル〉〈苦情レベル〉〈無理難題レベル〉の3段階に分けている。私が出会った無理難題を言う親は、担任との折り合いが悪いと「すぐに担任を変えろ」と校長室に乗り込んでくる。「朝、息子がなかなか起きないので、起こしに来い」と言ってきたり、「子どものピアノの発表会があるので、運動会の日程を変えてほしい」とか、子どもがボールで学校の窓を割ると「ボールがあるからガラスを割るんだ」と開き直ったりする親でした。
私は心ある素晴らしい多くの保護者に助けられてきたが、困った親にも出会った経験もある。
拓也(=仮名)の親には、いつも驚愕させられた。3年間、給食費は一切払わなかったし、息子の成績が悪いのは「教師の教え方が悪いから」だと言う。「拓也が万引したのは、学校が面白くないからだ」という言い分にはさすがに呆れた。拓也はわがまま放題になり、親へは家庭内暴力を振るい非行を繰り返した。親は子どもに「人としての生き方」を教えなければならない。親が自己中心に陥ってしまった時、必ずそのしわ寄せは親自身に跳ね返ってくるのである。
2 これでいいのか、学芸会・運動会の現実
小学校の学芸会の劇で「うちの子どものセリフが少ない」とクレームを言われる先生方も大変だ。おかしな平等主義のために主役がコロコロ変わり、全員が同じ数だけセリフを言うために、劇自体の内容がわからなくなる。私は中学校の時、学芸会でアメリカ奴隷解放の劇に出た。役どころはリンカーンではなく奴隷だった。全身を靴墨で黒く塗り、短パン一枚で、女の子にムチで叩かれ売られていく一シーンのみで、セリフは一言もなかった。親はなかなか良い奴隷だったと褒めてくれたが、今、思えば変な役である。
少し前、運動会の徒競走では、全員が一緒に手をつないでゴールする学校が多々あった。これも保護者へ配慮という。今では都市伝説である。結局、このまぼろしの平等主義は効果が確認できず、今ではそのような運動会は影を潜めた。子どもはいろいろな子どもがいていい。勉強のできる子ども、足の速い子ども、クラスの仲間を笑わせるのが得意な子ども……。一人ひとりが多様な個性と持ち味をもった、かけがいのない存在なのだ。子どもは様々な家庭にあり、平等とは言い難い。しかし、人の生き方は、家庭・学校で教える必要がある。
3 やっぱり基本は家庭教育
今、いじめの問題で学校は大変である。もちろん学校はいじめに対して、毅然とした態度で対応しなければならない。いじめを苦に自殺する子どもをもう二度と出してはならない。だだ、いじめは悪であるという教えを学校教育だけに求めるのは無理がある。昔は「弱い者いじめはダメだ」「いじめは卑怯者のすることだ」と親たちは子どもに教育した。子どもの人格のほとんどは家庭教育で作られることを再認識して欲しい。子どもの教育は、学校と家庭と地域社会の三者で行うが、基本はやはり家庭なのである。
私の親は、学歴もなく、経済的にも豊かでなかったが、父親からは人としての生き方、母親からは優しさを学んだ気がする。この年になって親の想いや有難さが少しずつわかってきたが、親不孝な子どもであったことを後悔している。もう一度、家庭教育の在り方について一緒に考えてみませんか。